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江之浦測候所へ行ってきました。

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小田原駅から二つ目の根府川駅からシャトルバスで10分弱の山の上。

ここは、自分が人生で出会ったアートの中で、もっとも大きなスケールを感じた場所でした。

そして、私にとってはどんな論理的な言葉で諭されるよりも、自分の器の小ささを実感させられつつ、自然がもつ本来の力をゆっくり感じながら、乱れた心がリセットされるような場所でした。

 

杉本博司さんという、写真・彫刻・演劇・建築・造園、他にも多岐に渡る分野で活動されているアーティストが設立した小田原文化財団、ここが開設したのが、『江之浦測候所』です。

測候所という言葉は耳慣れないと思いましたが、本来、気象の観測などを行う地方機関のことです。

この『江之浦側候所』という名前は、おそらくそこから連想されているのだと思いますが、この場所は、太陽の運行を観測することで、1年という時間の経過を意識化できた古代人の感覚を再体験できるように構想されたそうです。

 

私は佐々木典士さんのこの記事を読んで、近いうちに是非行ってみたいと思い、東京に用事があった際に、小田原まで足をのばしてみることにしました。
minimalism.jp

 

敷地は11,500坪、近代以前の人口密度を体感するために、2時間最大50名に制限された完全予約・入替制になっています。

最寄駅は、小田原駅から2つめの根府川駅。たった2駅進んだだけで、小田原駅の賑わいからは遠く離れたような、静かな駅です。

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ここからシャトルバスで10分弱、山道をのぼっていくような感じです。

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中は、写真・動画撮影可でしたが、商業的利用不可ということで、ちょっとこちらのブログに貼るのはひかえておこうと思います。

そして、いつものように写真を交えながら説明していくのもなんだかなあというか、こういうブログを書いている自分もなんだかなあというか、自分の作為的なところや打算的なところや、ここに来てもできるだけ写真に残したいと思ってしまうところとか、そういったたぐいのいろいろな感情をすべて捨ててしまいたくなるというか、そんなことがもう、とても簡単にはできない自分の存在とかに、自分でほとほとがっかりするような、

だけど、そんな自分でも、ここに来て、この場所の自然と古代人が生きた過去と今が交差するような不思議な感覚に取り込まれると、たった今も感じていた負の感情がリセットされるような、ただ静かで穏やかな場所でした。

 

シャトルバスを降りて、受付のある建物に辿り着き、受付をするまでにも既に、細部まで計算しつくされたアートを感じます。

椅子もテーブルも階段もロッカーもトイレも。。。

 

受付を済ませて、11,500坪、順路のない敷地内を2時間自由に散策することができますが、まずはみんな、受付から一番近いここに向かうと思います。

 

"夏至光遥拝100メートルギャラリー"
海抜100メートル地点に100メートルのギャラリーが立つ。硝子窓は柱の支え無しに硝子板が37枚自立している。ギャラリー先端部の12メートルは海に向かって持ち出しとなって展望スペースが併設される。夏至の朝、海から昇る太陽光はこの空間を数分に渡って駆け抜ける。(入館時に貰うパンフレットより抜粋しました。)

 

受付を済ませて、おそらく殆どの人が最初に入るこの場所のコンセプト(上記)が、この『江之浦測侯所』の理念として、とても分かりやすいと思いました。

 

この敷地内には、夏至の日の出・春分と秋分の日の出・冬至の日の出が、その場所から見えるようにつくられた、非常に大きなスケールの建築物があります。

その瞬間に誰が見るのだっていう(その日には特別な催しなどがあるのかもしれませんが)、商業的コンセプトとはかけ離れたオブジェクト、

春夏秋冬や太陽信仰、太陽から計測していたであろう時間など、そういった古代の人間が感じていたであろう日常を、アートとして再現し、古代人の心を再体験できるような施設になっているのです。

 

この、"夏至光遥拝100メートルギャラリー"には、ガラス張りの長い通路の奥に海、長い壁に規則的に並ぶ7枚の大きなモノクロの、世界各地の海の写真、ただ水面だけが写る白黒の写真....

ここに足を踏み入れた瞬間に、この曲を聴きたいなと思ったんですよね。ポーランドのピアニスト、スワヴェク・ヤスクウケの『Sea』です。

曇り空と冷えた空気と海と、古代が再現された自然にこのアルバムがものすごくマッチして、2時間ずっと聴いていました。

 

同じ時間に散策していた人はたぶん20人くらい。山の斜面に沿って不思議な建築物が点在し、目の前には海が続く広大な敷地の中を歩いていたら、周囲に誰も見えないという瞬間も多くあり、自分一人がこの場所に取り残されたような、でも寂しくも不安でもないという不思議な気分に何度もなりました。

 

ここには順路や建築物の詳しい説明等の看板は無く、2時間自由に散策をすることができます。立ち入り禁止の場所には止め石(こぶし大の石に紐を結んだもの)が置いてあります。

 

私は最初、思ったままの方向に進んで大体一周したところで、入場時にもらったパンフレットを改めて読み返し、もう一度、今度は一つ一つの場所に立ち止まりながら、説明を読みながらもう一周しました。

ここには、この場所でつくられた建築物の他にも、ここまで運ばれてきた歴史的な石塔などのオブジェクトも随所に配置されています。

最初、何気なく回っていた時も、この敷地全体のアートが放つ空気に不思議な心地よさを感じていたのですが、その後説明を読みながら一つ一つの作品を見ていくと、太古の昔と現代が不思議に交差するような説明のできないこの空気は、緻密な計算によって表現されているのだと分かりました。

 

よく「自然のまま」という言葉を日常で使います。何も手を加えないとか、ありのままとか、そこには計算というものが介在しないというような意味で私は使っていました。

けれど、自然こそ、人間の力を超越した途方もない緻密なプログラムによってそこに存在し、人間はその一旦を、自らの知恵によって見える形に創造し、カスタマイズして自分たちの暮らしに取り込んでいます。

例えば、時間の概念とか、農耕とか、気候の変化を利用することとか、今ここに生きることの全てのベースは自然というプログラムの上に成り立っているわけです。

 

完全なる人工的建造物が再現しているものは自然で、自然こそ人工を遥かに超越した、人間が決してあらがえない緻密なプログラムであり、そこに間借りして生きながらえる自分が、長い歴史の点ですらないということを、そしてそれはべつに寂しくも怖くもなくただ当たり前の事実であることを、ただ淡々と感じました。

 

オフィシャルサイトに貼ってある杉本さんのインタビューの中で、こんな言葉が出てきます。(ちょっと要約しています。)

死に向かっていくっていうのは
消えていくんだけど何もない世界に消えていくんじゃない
生命力がストックされている場があってそこに帰っていくんじゃないか

 

このインタビューも、何度も観て今思いました。ここ、江之浦測候所は、死が怖くなくなる場所かもしれません。

 

私は時に、こうして旅行をしたり、音楽を聴きに行ったり、お芝居を見たり、アートに触れたり、誰かと話したりして、自分の人生を振り返ったり、「より良い生き方」みたいなことを日々考えているのだけれど、そしてそれがくだらないということではないのだけれど、そういった全てを超越した

人類が重ねてきて、これからも重ねていくであろう何百万年という歴史の間に人々が見てきたであろうものを感じた時に、自分がそのどこかに一瞬存在して消えていくことも、ただひたすらに自然の中の一瞬であることが、すとんと自分の中に入ってきたような感覚がありました。

 

いずれまた訪れたい場所です。 

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