恋のおはか
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去年、角田光代さんの『なんでわざわざ中年体育』という本を読んだ。
角田さんは、実は長らくボクシングを続けている。
フルマラソンも何度も走っている。
そして、この本をつくるにあたり、ボルダリングにも、そしてマラソンよりずっときびしいトレイルランにも挑戦している。
スポーツが得意じゃない角田さんがスポーツを続ける理由は、30代でとても手痛い失恋をしたことにあるそうだ。
失恋の痛みは30代になっても10代となんら変わらないくらい辛いもので、40代の自分が同じような失恋をしたら、とても耐えられないから強くなるために自分を鍛えたい
・・・という趣旨のことが書いてあった。
この部分を読んだとき、私はすでにもう、10代・20代のような手痛い失恋とは無縁だと思っていた。
それはたぶん、20代が終わる頃から思っていた。
そんな痛みを負うほど恋愛にはまることは、もうないだろうという意味で。
穏やかで、焦らず、疑わず、終わりも始まりも、すべては自然のことわりだと思えるような、静かな恋愛ができると思っていた。
その予想は、たぶんそんなに大きくは外れていなかったと思う。
すくなくとも、憎むとか妬むとか恨むとか呪うとか、そういった負の方に大きく振り切れるような感情とは、わりと無縁でいられた気がする。
逆に言うと、以前はそういう感情を抱えて、長らく生きていた。
そこから開放された。
考えられないほどに、生きることが楽になった。
でも、ただひとつだけ、ほんのわずかに、
どう頑張ってもどう悩んでも、どこに引っ越して何を捨てて何を絶っても
深く深く削っても、永久にゼロにならない、透明にならない想いがあった。
別にもう、苦しくはないのだ。悲しくもない。辛くもない。
憎んでもない。
笑い合えるし、たぶん気遣い合っている。
お互いの今を。
でも、つい最近までですら、ふとした瞬間に、小さく、小さく、傷つき続けてきたんだなあとも思う。
でも、そんなことで、自分の生活の何かがとどこおることはない。昔のように。
好きな場所で好きなことをして、たまに気の合う人たちに会いに行って、
嫌なものを捨てて辞めて、これまでの人生の中で今、ストレスは最小限だ。
でも、決して消えてはなくならない気持ちと、しずかに戦っていたのだと思う。ずっと。
今年に入って、バイトがなくなって、やたらと物事がスムーズに進んだ。
去年の3月に会社を辞めたあとも、もと職場に月10日ほどバイトに行っていたので、6年ぶりくらいに「出勤」をしない1か月だった。
その勢いにうっかり乗っかったら、やたらとスムーズに、ああ、これはもうほんとうに、ここですべてを終わりにしようと思える出来事まで突然やってきた。
私がその日その場所にいることも、なにもかもがスムーズだった。
百回以上歩いた場所で、昔の私に戻っていた。
たくさんの負の感情を思い出して、ものすごく泣ける気がしたのだけれど、落ち着いたら全然泣けなかった。
とても静かな気持ちだった。
20代の終わりから思っていたことは、
もう無駄に傷ついたりしない、もう好きだった人を憎んだり恨んだりしない、もう恋愛に生活を左右されたりしない、というようなことだ。
実際こんなふうに生きられるようになってから、なんと楽なのかと思った。
(ちなみに、何か努力をしたわけじゃなくて、単純に女性ホルモンが減少したんだと思う。笑)
角田さんのように、手痛い失恋に耐えられるように自分を鍛えるという発想はすごいなあと思うのだけれど、
自分は、失恋を手痛いものにしないために、最初から執着しないことで、自分を守っていた部分はあると思う。
それが、自然に思えるように、心も身体も変化していったんだなあと思う。
(平たく言うと「老い」だとも思う。笑)
そんな生活の中でひとつだけ、とても小さく、だけどいつまでも消えずに、消すことを諦めたシミみたいな、だけど捨てられない服みたいな、言葉にできない想いをやっと、もう捨てていいんだなあと思った。
もう、苦しくはない。悲しくもない。辛くもない。
憎んでもない。
とても、感謝をしている。
ものすごく寒くてセンチメンタルになったけど、ただ北杜市が寒いだけです。
すごく元気な時に書くとこうなる。久しぶりに読み返したけれど、言いたいことはだいたい同じだと思う。
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サムネイルが上手くいかなくて、一度書いた記事を削除してしまいました。スターくださった方すみません。ありがとうございました。