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マララ・ユスフザイさんの演説を改めて読んで

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昨日部屋のそうじをしていたら、ある新聞の切り抜きを見つけて、読み返しました。それは去年、ノーベル平和賞に選ばれたパキスタンのマララ・ユスフザイさんの演説とその訳の要旨だったんだけれど、そして読み返して、またいつもと同じことを考える。なかなか答えが見つからない思いを。

私は長らく政治や社会問題に関して非常に無関心に生きてきた。変わったのは東日本大震災が起きてから。自分が知っているつもりだったことや信じていたことって、思いっきり間違っていたりするんだなあと知った。自分のことしか考えずに生きてきたことを本当に恥ずかしく思った。

けど、自分のことしか考えていないところは今もそんなに変わっていない。私がどう楽しく生きるか、何をしたいか、すべきか、そんなことしか考えていない。けど自分のことばかり考えていられる幸せな自分が、せめて少しでも人の幸せについて考えるべきじゃないかと思って始めたのが、2011年3月から、毎月1,000円を寄付すること。それは東日本大震災の義援金に限らず、その時関心のあるいろんな所へ寄付をしていた。そして3年くらい続けていたら、もうそういったことに月1,000円以上を使うのは習慣になった。

4年の間ふいに思い出すのは、私はこんなふうに、幸せに生きていていいのかということ。(見る人によっては、不幸でもあるかもしれないけど・・・ワーキングプア、実家暮らし、未婚なんて言ったら「社会」の「問題」とされている区分であるが。)

いや、いけないんだと思う。もっと質素を心がけ、浮いたお金を社会のより必要とするところに使うべきなんだと思う。

私が尊敬する、私にはとても真似のできない素晴らしい活動をしている方々(・・・外国で、被災地で、危険を顧みずに、平和のために、人々を救うために尽力している方々)が、「少しでいいから関心を持って欲しい」と言っていたりするけれど、その言葉を受け取る側(自分)が「少しだけど関心を持っています」と言うのは違うんだよなあと思う。少しでいい意味が、自分では分からないからだ。

今ある幸せを挙げてみる。

家がある・世界最上級のインフラ設備を使える(日本はすごい)・身の危険を全く感じていない・ワーキングプアだけど仕事がある・仕事を選べる・食べ物に困っていない、どころかいつだって好きなものを食べていいし、一生かけても消費しきれない娯楽はいつだって手に入る・行きたいと思ったところには大体行ける・話したいことを話し、主張したいことを主張したっていい・溢れる情報の中から何でも見つけられる・好きな服が着られる・自分が好きな人と結婚できる権利がある

十分すぎる。これを教授しておきながら、これ以上何を望むのかと思うけれど、何も望まないようにできる自信は全くない。自分はダメだなあと思う。10年かけたらできるかもしれないけれど。

自分に与える免罪符を考えてみる。

私が今挙げた幸せは、世界の全ての人が等しく手に入れられるべきだと考えたら、もう手に入れている人から何かを引くんじゃなくて、手に入れている人はそれをキープしながらそうじゃない人や場所を助けることが最終的に世界の平和になる・・・

うーん。間違いとも言えないけど、正しいとも言えない。

自分は今ある幸せを享受し、その環境を活かして自分を成長させ、ゆくゆくは社会でより役に立つ人間になる・・・

いや、全然できない。というか、こんなに満たされてなくてもいろんな方法で自分は成長できるはずだ。そして社会により貢献できるのかは分からない。


いろんなことを言ってきたけど、平たく言うと、
自分は恵まれすぎているし、その環境に甘えているし、そういう自分を情けないなと分かりながら、無駄な贅沢を断ち切る気もない。うん、なかなかに最低な人間だなあというのが感想。

誰かの、たとえば「できる範囲でいい、自分とは遠い存在の社会問題のこともたまに考えてみよう、何かしてみよう」的な言葉は、今の自分に対して全く解決になっていなくて。私はなんで「できる範囲でいい」と言われてもいいのか、凄く考えても今分からないのだ。できる範囲じゃだめなんだろうなと思いながら、その言葉に乗っかりたい自分はだめだなあって思って、この問題はまだ全然解決できない。まとまらない。

とりあえず、今うっかりすると、自分が恵まれていることすら忘れてしまう時が本当にたくさんあるので、このマララさんの記事の切り抜きを毎日持って歩き、自分が大事なことを忘れていそうな時に、いつでも読み返したい。