絵本「おおきな木」を思い出して
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昨日、円野まどさんの「おおきな木」についての記事を読んでずいぶん考えていました。
「おおきな木」とは、その感想が分かれることでも有名な絵本ですが、私も過去の記憶をたどり、改めてこの作者が表現したかったことに思いを馳せました。
「おおきな木」のあらすじ
登場人物はリンゴの木と少年です。二人は仲良しでしたが、少年は成長するにつれ、お金が必要になったと言えば、木は自分の果実を売るようすすめ、家が必要になったと言えば、自分の枝で家を建てるようすすめ、遠くへ行きたいと言えば、自分の幹で船をつくることをすすめる、、、というものです。しかも、少年はそれらを与えてもらったあとには、木のところには長いあいだ戻ってくることはなく、困った時にまたやってくるという人生をおくります。(いちおう、結末は書かないでおきます。)
解釈の分かれる点
まどさんの記事を読んでから、改めてネットでいろんな人の感想を読んでみたのですが、ほんとうに様々ですね!
本田錦一郎さん訳(現在絶版)と、村上春樹さんの訳で解釈が違うというのも有名な話のようなのですが(私はたぶん村上春樹さん訳を読んだと思うのですが)、論点は
・木は本当に幸せだったのか?
・木は少年をダメな人間にしてしまったんじゃないか?
・木が少年に与えているものは何なのか?愛情と言えるのか?
など、いろいろありますよね。
私も改めて、この絵本は何が言いたかったのかなあということをものすごく考えて、まどさんの記事に感想を書きました。
でも今日改めて考えたら、その感想もちょっとだけ違うかもなあ・・・という気もしてきました。本当に深い。。。
思うに、この本にはたぶん「正しい答え」は無くて、これを読んで感じたことで自分を振り返ることができる、その人の指標のためにあるような本なんじゃないかなあと思いました。
私の、これを初めて読んだ10代と35歳の今の解釈もだいぶ変わったと思います。
私の感想
私は、この木が少年に与えているのは自己犠牲的な愛ではないんだよなあと思いました。
でも、そうやって物を望むままに与え続けてもらえることで意のままに生きてきた少年は不幸じゃないのか?と考えると、 この絵本の最後の段階では、少年(というか老人)は不幸だと思いました。
・・・と、昨日は、この本の最後の段階での少年は「不幸」だと思ったのですが、最後のシーンは、今考えると、自分の意のままに生きてきたことを振り返って後悔をした後に、そういう自分も受け入れて人生を振り返っている(のじゃないかなあと思う・・・)その瞬間はもう不幸ではないのかもと思いました。
木の行動は、普通に考えたら、見返りを求めずにできる行為ではないけれど 木自身は、見返りなどいらない、かつ、少年の行動を全肯定するわけではないけれど 自分にできることはただ、言われたものを与えるだけだと思っている という気がします。
木は、その結果起きる事態も全て、少年が生きてきた人生もすべて、世の中のことわりとして受け止めること、それでいいんだと思っているんじゃないかなあ・・・というのが、自分が好きな解釈です。
私は、自分が不幸だと思っていた恋愛の時に、この木のようになれていたらよかったなあということは 今でもよく思います。すごく、思う。
ここまで考えたときに、あ、私こういうひと知ってるわ!と思いました。
私の解釈なんですけれど、私の好きなバンドAndareの国吉亜耶子さんて、精神的にこんな木みたいな人じゃないかなあと思ったんですよね。
『その声は藍色の空で星になる』とか『お別れのうた』とか『どうかこのまま』(とか他にもあるけれど)を聴いていて、いつも「どういうことなんだろう」と思っていたことが、すごく腑に落ちた気がしました。(私の勝手な解釈なので、全然違うかも知れないけれど。)
これらの曲を聴いていると、世のことわりを俯瞰しているような、禅の心みたいなものを感じていて、それがすこしさみしいような気もしていたんだけれど、それはあまりに広くて深い愛だからそんなふうに感じるのかなあと、それは、この本を読んだ時の気持ちに似ているなあと思いました。
こんな木のようになりたいと思う私は、まだまだそんな域には遠いけれど、すくなくとも10年前よりは、受け止められることはすごく増えたんじゃないかなあと思っています。ダメすぎた10代や20代があってよかったなあと今は思います。
よかったら「おおきな木」読んでみてください(*´`*)