私の、ミニマリズムとプライドの戦い
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最近たくさんのブロガーの方にお会いする機会があって、その後短期間の間に、時間の許す限り、皆さんのブログの過去記事を読んでみたりした。
下諏訪大好き、いつもみんなをまとめてくれるA1さん(えーわんさん)をはじめ、私がよく下諏訪などで会っているブロガーさんたちは、元々ミニマリスト繋がりである。
(このブログを読んでくれている私の友達などでも、「ミニマリストって何?」という人は結構多くいるので・・・・ミニマリストとは、例えばこんな方。http://sibu2.com/minimalist-no-motimono )
私が皆さんに会うきっかけになったのは、去年夏、簡単に言うと、マスヤゲストハウスに泊まりたくて、マスヤのことを検索していたらA1さんのブログにたどり着いたからである。(たしか。。。)
私はミニマリストではない(憧れていたけど)のだが、その1年前に佐々木さんの『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』(ぼくモノ)を読んでから、そういう概念があることを知り、それにひどく感銘を受け、自分の中では結構大量にモノを捨ててきたのだけれど、ミニマリストには遠く及ばなかった。(ミニマリストってそういうことじゃないっていうのは置いといて。)
そして1年後、偶然出会ったのは、私が憧れるミニマリストのコミュニティだったのだ。
みんな、とても優しくて面白い。旅行が好きで、ゲストハウスが好きで、交流が好きで、発信するのが好きで、一般的な概念にとらわれずに自分の意思を大事にしている、そういう人が多いと思う。
自分もみんなと、そういうマインドが近いと思うので、とても居心地がよくて、ああ!私が求めていたのはこういう場所なんだ!ということをよく思っていた。
けど、私は未だに多くのモノを抱えて生きている。
服はキングスファミリーに何度か足を運んで30kgは処分している。(レシートにkg単位の値段が出るのでわかる。)
本も何百冊も処分しているし、「掃除したい!」と思う度に、結構大量のゴミを捨てているのに全然部屋が広くならなくて(最初の頃に比べたら多少広くなっているはずなんだけれど)、もうこれは何かの呪いなんじゃないかと思っていた。
でも、冒頭に書いたように、いろんな人のブログの過去記事を読んでいて分かった。
私が捨てられないのは、呪いのように粘着質なプライドなんだなあと思った。(よくプライドの話をしていてしつこいなあとほんとうに思うけど。)
よく星川さんに、「中山さんて考えすぎですよねー」と言われるのだけれど、これは本当にどうしようもない病だと自分の中で片付けている。
私が30代になって身につけたのは、このどうしようもない病から発生する悪影響(他人を不愉快にさせること)をなるべく減らすすべであり、根本的解決には至っていない。
考えすぎるのは全部、「こう思われていたらどうしよう⇒思われたくない」というプライドで、私が捨てられないモノも、全部プライドにまつわるものなのだ。
ほんとうは、分からない音楽は分からないし、完全なる無知を認めるけど、自分が好きなものを追求して好きなものを広めることに全力投球しているから別にいいんだ!と言いたい。(間違っている気もするけど、間違っていてもいいじゃんって言いたい。)
最後まで読まないのに残っている本はお酒関係で、もう自分は、飲むのは好きだけど、深いことはわからないと言えばいいし(というか、聞かれる機会とかもう無いし)、なんだか集めてしまったお酒もただ劣化していくだけだし。
今、モノを捨てる時ほど、自分と深く向き合う瞬間って無いような気がしている。
けっこう、つらい。
でも「そんなに負荷をかけてやることじゃない」っていうのも違うと思っていて、これは向き合わなきゃいけない自分なんだなあと思っている。(特に目標もなく生きていたいと思っているならこのままでいいのだけど。)
だからほんとうにモノが無い人って、ほんとうにすごいんだなって思っている。
けっこうマインドが近いつもりでいたけれど、全然違うんだなあと思った。みんな、もっとずっと思考がシンプルなんだろうなあと思った。私はどうでもよい思考をたくさん経由して、果てしなく無駄なエネルギーを消費しながら生きているんだなあと思った。
本気で自分を変えていきたい。
全然暗い話じゃなくて、私はとても元気だし、まあまあ楽しく生きてます。フリーター最高!でもこのままでいいとは全然思ってないし、ちょっと成長したなと思って、全然そんなことないわっていうことを何度も繰り返していくんだな。仕方ないなあと思っている。