ココロサードプレイス

日常で考えていることを書いています。

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引き続き、『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』を読みながら。

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本の中で筆者が言っていたこと、
「自分の価値を、置いてある本の量で示そうとしていた」

これはすごくよく分かる。自分に本当に自信があったり、本当に幸せだと思っていれば、外へ向かって、わかりやすい記号を自分に付ける必要は無いわけで

でも、本当に好きだし、他者の視線は1ミリも意識してません、てなかなか難しいなあって思う。

20代の頃自分のスタイルと思っていたことの意図は、

自分が好き:他者によく思われたい=6:4くらいで、今は8:2とか9:1かな。でも10:0ってなかなかの境地だと思っていて、0になっていたら、何事か成し遂げているんだろう、そう思う。

あと、逆な言い方をすると、人の視線は意識しているけど、逆に0:10も無理だろう。根底にあるのは、自分が好きなことをしつつ、それがかっこいいって思われたいっていう気持ちだから、好きじゃないのに無理矢理頑張っていたことって、多分無いなって思う。

私が3日に1度くらいライブハウスに通っていた時のサイトは、だから年間100何十本見たライブの詳細を明確に記録していたわけだけど、その後ライブハウスで働くようになってからそのサイトを見た同じ会社の人に、自分も同じくらいライブに行くけど、こう記録したいとは全く思わない(別に馬鹿にされたわけじゃ全然無く、素直な感想だったのですが)と言われて・・・

ああそうか、私はこれだけライブに行っているんだって記録して人に見てもらうことが非常に重要だと思っているんだなーと気づいて、だけどそれって別に、好きじゃないのに頑張ってるわけじゃなく、むしろ好きすぎるからできることで、

そうですね、自分が好きなことに対して、他人にどう思われたいとか全く考えないってなったら、それは本当に好きかどうかっていうことじゃなく(本当に好きの本当って曖昧だしね)自分が楽しいかどうかのめもりは自分の中にしか無い、ということで、そうなったらやっぱり幸せだろうな、何をしていても。

だから目指すべきは、「本当に楽しいことをする」なんていう曖昧なことじゃなく(私は飽き性だからすぐ好きな物が変わるし)、楽しいの基準は自分の中だけにあるかどうか、っていうことなのかと思って、全然まだまだだなあと思った。

まだまだ、センスいいって思われたいとか、そういうことはよく思うなあ。でも、あ、私かっこ悪いって思われてるな、でも別にいや~ということもどんどん増えてきたので、自分の幸せめもりを一番信じられる日も、いつかはやってくるんじゃないかなと思っている。