ココロサードプレイス

日常で考えていることを書いています。

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アマゾンプライムで『銀河鉄道999』を観た

そういえばアマゾンプライム会員なので、夜することがない時は映画を見よう、と思い、昨日は『ゴッドファーザー』を、今日は最近吹奏楽で演奏していて久々に観たいな~と思った『銀河鉄道999』を。

『銀河鉄道999』は小学生の頃(だから25年くらい前)原作が大好きで、原作には映画に出てこないもっとたくさんの星が登場して、本当に面白いんですけれど、映画には映画の良さがありますねやっぱり。

以前観たのがいつか思い出せないんだけれど、たぶん20歳くらいですかね。。。内容はおぼろげだったのですが、全体に悲しい話だと思い込んでいました。まあ悲しいのですけれど。結構前向きに終わっているんだった。そうじゃないとあんな陽気なエンディングテーマは合わないですもんね。そして、意外に今の歳になって、というか最近の私だからこそすんなり入ってくるエピソードがすごくたくさんあることにびっくりしました。

ベースにあるテーマは、「限りある命だからこそ人生を大事にできる」ということなんですよね。

そう、最近になってやっと「時間は何よりも大事!」とか「今やってることは本当にやりたいことなのか?」とか、そんなことを最近自分はすごく考えるし、周りの人もすごく言っている。

『銀河鉄道999』は、永遠の命を手に入れられる機械の身体になることが最高のステイタスで、生身の人間は貧しく哀れで、しまいには機械人間の趣味(人間狩り)によって狩られるという格差社会が前提にあるんだけれど、永遠の命を手に入れた人たちが実はそんなに幸せじゃないんだよね、という話だと思います、ざっくり。

そんで、「永遠に生きたい」という人間の気持ちが物語で表現されるのは、すごく古い感じがするんだけれど、でも今で言ったら、「いつまでも若くいたい」という言葉ってけっこう、これに近いのかな実は。

で、思うのは、いつまでも若くなくていいよなーということで。「いつまでも若く」にはいろんな要素があるけれど、主に見た目と身体能力ですよね。あと気持ちも、かな。

「流されないけど逆らわない」というふうに生きたいなと思っていて。自分の意思を持って、時々迷ったりもするけれど、流れに乗るときも、意思を持って流れたい、というか。迷うときも、迷うぞ、と思って迷いたいというか。そして、自然の流れはねじまげないようにしようと思っている。何が自然かが分かる感度も必要だと思うんだけれど。あ、これ以上行くと不自然に転じる、というポイントが分かる人間でいることが大事で。

それが目指すべきところで、そうやって生きていたら、結果として「若い」という幅広いワードにカテゴライズされることもあるかもね。

今、命に限りがあるから幸せで、毎日に区切りがあることも、全てのものごとにおいて、キツイが緩いかの差はあれど大体に締切が存在していることも、自分を奮い立たせる要素なんである。

永遠に生きられないことは誰もが知っているんだけれど、今ほんとに、ああ永遠じゃなくてよかったなあって思いました。

余命があと3日だったら?3ヶ月だったら?3年だったら?・・・と、その時するだろうなってことを考えてみるのもいいかも。


全部が遠くで響いてる

1ヶ月前どういう気分でいたっけなあ、ということも思い出せないくらい、今ぼんやりと生きている。戦いも、感動も、喜びも、悲しみも、辛さも、怖さも、あるのだけれど、しかも強くあったりするのだけれど、その強い気持ちすべても、「今私が感じるぼんやり」の範疇のなかで強く鳴り響いている、言葉を尽くしてみると、そんな感じである。こういう気持ちになったことはあるんだっけなあ。たぶんあるんだけれど、思い出せないなあ。単純に「スランプ」という言葉が浮かんでくるんだけれど、それともちょっと違うような。「今は何をやってもダメだ・・・」という感じでもないんだけれど、もちろん「なんでもできる」というわけではない。疲れているわけでもない。何日かの間早く寝てみたんだけれど、21時台に寝ると絶対3時台に目が覚めるのでやめた。お酒を結構飲んでみたりしたんだけど、美味しいのだけれど、それもなんか違う。お菓子がやめられなくてつらい、という話を昨日書いたけれど、太ったなあと思っていたら実際太ってなかった。ちょっと痩せてた。なぜだ。(わからないけどラッキィ!)でもお菓子はやめよう。やめたい。いろんなところに出かけたりもして(近場だけれど)春を満喫している気がする。厳しい冬はいつのまにか、ほんとうにいつの間にか終わっていた。びっくりする。きっとすぐ暑くなるのだ。「ちょうどいい気候」っていうのが本当に短くて、さみしいなあと思う。もうちょっと今自分に起こっていることを考えてみよう。今、おいしい・たのしい・美しい・悲しい・こわいも、全部、良い感情も逆も、全部心から感じている、と言えない気がする。夢の中みたいな感じというのが近い気がする。震災があってからかなあ。いや、自分の中で積み重ねてきた何かの影響なのかなあ。

たまにこういうぼんやりしたことを書くと、心配して下さる方がいるのですが、全然なんということはなく、元気に楽しくやっています。美味しくお酒を飲んでいたりすらしています。ただ自分でも説明できないぼんやり感はなんなんだろうと思っているだけです。

タバコは吸わないけどやめられない人の気持ちは物凄くわかる

タバコをやめたくてもやめられない人の気持ちはとてもよくわかります。私もお菓子を食べるのをやめられないので。ほんとうにやめたけいんだけどやめられない。去年かなあ、3ヶ月くらい「砂糖をほとんど摂取しない」を実行したんですけれどね、よく3ヶ月も続いたなあ。。。あと、食べるものを全部記録するアプリもたぶん2ヶ月くらい続けたんだけどやめました。

家にお菓子の買い置きがあるのがいけないのです。でも家族がいるのでねえ。一人暮らしの頃は家に買い置きが無いようにしていたんだけれど、家の周囲にはお店がたくさんあるので、仕事帰りでも帰ってきてからでもすぐに欲しいものを買いに行ったり食べに行けたりしていたので。

あ、逆に今家に買い置きさえなければ、すごくいい環境なんだな。通勤は寄り道できるところ何も無いし、夜コンビニに行くとしたら車だし。お菓子欲しいだけのためにぜったい車に乗らない自信がある。

砂糖を絶っていると、どんどん受けつけなくなるって言いますよね。自然とやめられると。いやーそうでもないんだなー。期間が短かったんだけれど。

タバコも吸っていた時期はあるんです。21~27くらいまで。まあそんなヘビースモーカーではなかったけれど。山梨に帰ってきてからは全く吸っていません。今の仕事を初めて最初の頃は「吸いたいな~」って思う時はちょっとありましたけれど。そんなに依存はしなかったなあ。今タバコを吸う人が身近にいたら、ちょっと残念だなあって思います。絶対一緒にいられない、というほどではないけれど。やめたらいいのになーって思います。でもやめられない気持ちもわかります。(みんながやめたいと思ってる前提みたいな書き方ですが、私が仲良くてタバコ吸っているひとはほぼ全員やめたいと思っています。)小さなバーで喫煙可だったら1時間以内に帰りたいです。

禁煙を頑張っている、という人を見ると、ああ、私も頑張るよー(お菓子やめるのを)と思います。

ほんとにやめたい。

bar bossa林さんの提案を読んで

私の好きなbar bossaの林さんが、このサイトで「こんな〇〇があったらいいな」という連載をしているのですが、とてもおもしろくてうなずける。

たとえばこれ。

音楽や映画など、すべての情報を網羅していて、自分の好きなアーティストや趣味を登録しておけば、そんな公演などがあるときに教えてくれるというサイト。

そうそう、私も10年以上前は『ぴあ』を毎週買っていました。小さなライブハウスの情報も載っていたしね、自分でいろんなライブハウスのマンスリーをチェックするのも大変ですし(当時は楽しかったけれど)。

昔は本当に好きな人の情報はくまなくチェックしてそれだけには行く、という趣味の楽しみ方をしていたけれど、今山梨に住んでいて、昔ほどは音楽を聴かなくなり、情報にも疎くなり、好きな人のライブが明日だと分かったらすぐ行けるという環境ではない、というのがひとつあり。

あと、趣味に使えるお金というものが、10年前よりは少し増えたので、例えば自分の知らないアーティストでも、自分の好きな人がおすすめしていたら聴いてみよう・買ってみようと思うし、ライブにも行ってみたいなと思うので、今の歳になってこそ、「信頼できる人のおすすめ」みたいなものを自分の中で結構活かせる時なんじゃないかと思って。

10年前だったら聞き流していた情報も今ならキャッチするというものが逆にたくさんあると思う。自分が知らないけどきっと自分が好きそう、と思える情報を今こそ欲しいと思っているんだな。

昔だったら、少し迷って「買わない・行かない」にカテゴライズしていたものが、今なら大いに興味があるというのは、自分の趣味嗜好が大きく変わったわけじゃなくて、自分の環境で「買える・行こう」に変化しているんだよなーということを、改めて考える機会が無いと忘れている。

真実はねじ曲げない!

いつか言えたらいいな、ということがあって。過去の弁解とか今思っていることとか。熱烈な想いでもなく、ただ軽くもなく、でも、すくなくとも誰も不幸になんてしない、何かを大きく変えることなんてない、けど、すこしだけ思い込みを払拭するかもしれない、少しだけ安心をするかもしれない、何も響かないかもしれない、けど、もしいつか機会があれば。そう、そのくらいでいいのです。一生無いかもしれないけれど、それもよし。そうであれば、ああ必要なかったんだなあということで。

自分で考えるけれど、逆らわないことにしている。何をもって「逆らう」とするのかは、直感みたいなものなんだけれど。「ああ、これは自然ではないぞ」ということを察知したらすぐ手を引くことにしている。昔は自然じゃないことを自らの力を尽くして捻じ曲げたいとばかり思っていたのだけれど、それが絶対に良い方向に行かないことは、今過去に戻れたとして、その時の私に告げることができたとしても、それを止めさせることもまた、絶対にできないだろうなあとも思う。自分で自分の手を止められるのに必要だったのは経験である。私の場合は。人の話を信じて、自分が正しいと思うことと真逆のことをする、ということが絶対にできなかった私を変えたのは、痛い経験でしかない。

今でも時々熱烈に一瞬、自然を捻じ曲げて今を変えたいと思う時がたまにあるけれど、だいたい3日くらい経つと何事もなかったかのように、強い気持ちも薄らいでいて、ああなんて生きやすいんだろう、幸せだなあと思う。自分の呪縛から自由になった今、本当はもう何も要らないくらい幸せだ。

よく、思い出さなきゃなあって思うんだけどな、今の幸せを。自分の意見を話せる。こうやって書ける。毎日深く思い悩むことはない。明日のごはんとか、こんど出かけるところとか、欲しいものとかを考えることができる。

いつもここに帰ってこよう。

インプット不足

いろんな理由でやる気が出ないなあ、、、と思っていたけれど、それはインプットが不足しているからだ、と気づきました。

どこかへ出かけたりとか、ライブを観たり、音楽を聴いたり、美味しいものを食べたり、それも大事なんだけれど、そしてネット上で、noteやcakesやいろんな人のブログやニュースなんかを読んでいるわけでだけれど、私はやっぱり本が最も自分に影響を与えるインプットなんだと思いました。イベントまでの2ヶ月くらいは全然本も読まなくなっていたし、それは最近まで続いていたのですが、「ああ、なんか足りないぞ?」というものがですね、自分にとっては本なんですね。ここ最近はキンドルが主でしたが、写真の多い美しい雑誌とかもたまには見たほうがいいな。そしてこんなところに行きたいとか、こんな部屋にしたいとか、こんな生活にしたいとか、そういう気持ちは紙の本から一番得られる気がします、私は。

何かを見て感じて、自分の思考回路を動かしたつもりになっているけれど、本を読んでいるときはその何十倍も労力を使っているし、紙でカラーの写真とかを観ると+αの刺激を受けている。

というわけで、今日は久々に本屋へ行きました。本屋ってやっぱりわくわくするね。このわくわく感は今のところネットでは絶対に再現できないと思う。

料理の本とインテリアの本とワインの本を買いました。

キンドルでも読みたい本を読もう。

ビタミン不足で肌が荒れるとかと同じで、脳にもインプットが足りないと表現のエネルギーが湧いてこないのですね。

熊本地震について思うこと②

震災のニュースと、それに関連するいろんな情報と・・・。ああ、こういうときにいつも思わなかったこと思ったり、見えなかったものが見えたりするよなあとか思って、いろんなことで気が滅入っていたのか、でも今朝思ったのは低気圧のせいかも、とにかくここ二日間は全然元気がでなくてですね。同じ会社の人で震源地の傍に住んでいる人がたくさんいて、みんな生命は無事だけれど今体育館で避難生活をしているとのことで、ああ食べるものはあるかなあとか、トイレとかどんな感じなんだろうとか、眠れてないだろうなとか、実家に帰りたいけど帰れないだろうなとか、あと、大分にも友達がいるのでとても気になっている。たぶん生命は無事だろうと思うけれど。

でも今私の住んでいるところに同じ規模の地震が起きてもおかしくないわけで。活断層がすぐそばにあるので。これはもう小学生の頃から言われていたけれど。うーん、実家にいたら(会社も近所なのでいる可能性が高いのだけど)たぶんライフラインが寸断されても最低限の生活はできると思います。外でご飯も作れるし、水も蓄えはあるので、2週間とかは余裕で大丈夫だと思います。冬だと厳しいけどね。。。今からの季節ならなんとか。冬に起きたらどうしたらいいんだろう。あ、でも灯油は絶対あるので、石油ストーブは使えるか。外で薪を炊いてもいいですしね。こう考えると田舎って素晴らしいな。あと、家族と一緒にいるという安心感はありますね。お互い連絡をとれないとなったらやっぱりその間は気が気じゃないだろうし。

そしてやっぱり、会える人には会えるうちに会っておきたいし、親に対しても、いつか振り返って「あ~〇〇しておいてよかったな」と思えることをたくさんしておきたいなと思いました。

本当は現地に行きたいけれど、今行くすべが無いのと、仮に行けても長く滞在はできないので、そのお金を確実に現地のために使える人に渡すのが一番いいよなと思いまして。一番いいのは、今現地にすぐ入れるし支援活動をしたいけれど、団体として小さく資金が少ないというとこに渡ればいいのですが。でも身元不明すぎてもあれなので、よく調べてからにしようと。なのでひとまずはこちらへ。

camp-fire.jp

熊本地震について思うこと

ふとした時に繰り返す言葉、「正直に生きたい」。迷った時につぶやきます。正直に生きたい。正直に言いたい。私が本当に思っていることはなんだ?と。

昨日は午前中、家の仕事を手伝い、午後から整体へ。整体師の方はプライベートでも仲が良いのですが、施術が終わった頃、その方のお友達カップルが近くに来ているので遊びに来るということで、その場は4人になり、そこへ旦那様も帰ってきて5人になり、宴会が始まりました。お友達カップルの彼氏さんは料理人でして、手作り料理の数々をご馳走になりましたが、本当に美味しかったのです。昨日釣ったヤマメの南蛮漬けとか、麺にこだわった焼きそばとか、甲州麦芽ビーフとか・・・と、いつまでも居たかったのですが、夜は吹奏楽の練習のため、18時頃においとましました。

そして吹奏楽の練習へ行き、帰ってきてテレビを見ると、なんと熊本で震度7の地震が起こっていたとのこと。九州、特に熊本は友達や知り合いもたくさん住んでいて、でもこんな時に家族以外の人間がメッセージなんか送るのもあまり良くないかなあと思い、あとね、きっと大丈夫、絶対大丈夫だっていう根拠の無い思いもあり、午前1時くらいまではネットを見ていたんだけれど、いろいろな情報に混乱もしてきたので寝ました。

今日になって、いろいろ分かってきて、ひとまず安心しました。そして、一年と一ヶ月前に行った九州旅行を思い出していました。

夕方会社が終わってから、山梨→成田へ向かいました。成田のカプセルホテル、ナインアワーズに泊まって朝5時くらい出発のジェットスターで熊本へ。その日は、熊本城とサントリー九州熊本工場を見学、夜は友達と飲みに行って市内のホテルへ宿泊。次の日九州新幹線で博多へ移動し、雨の中志賀島を目指すも、島に着いたとたん豪雨になり、雨の中立ち尽くしてバスを待ち、観光する気も失せて、そろそろ行こうと思っていたタイミングだったので美容院へ行き、博多駅前でやっていた日本酒のイベントをひやかしてホテルに戻り、夜はずっと行ってみたかったバーへ行ったのでした。

このバーは、私が東京に住んでいた頃通っていたBAR森というところで出会ったTさんが、実家に帰ってから始めたお店でして、ここがほんとうに素敵なところだったんですよね。この九州旅行博多編は、このお店に着く直前まで散々だったのですけれど、全てが帳消しになったとても楽しい場所でした。ここへ行くためだけにまた福岡に行きたいなと思ったのでした。

この時は寄れなかったのだけれど、佐賀にも大分にも鹿児島にも友達がいるので、また行く、絶対に行くと思いながらもう、一年が過ぎてしまいました。


「明日何が起きるか分からないからしたいことをする」っていう言葉をもう言いすぎて、もう使い古した薄っぺらい言葉に聞こえてくるんです、私が言っていると。だからもうそんなこと言えないや。というか、もうそれは私にとって至極当然のことで言うまでもない、だからわざわざ言葉にする必要もない、そんなポリシーなんです。

頑張ることじゃないんです。気づいたときにもうそうなっているよう、自分を仕向けていく、それができなければまあ、別に無駄にしたっていいんだ。一番すべきことは「したいことをする」より「悔やまない」かもしれない。

したいことをするもよし。そう決めて、でもしたいことがぶれるのもよし。考え直すもよし。立ち止まるのもよし。また考えたらいい。効率悪くてもいい。何度も言っているのにってたくさん思えばいい。同じ残念なことを繰り返してもいい。同じ過ちを繰り返すな!という言葉が好きになれない。たくさん繰り返す自信がめちゃくちゃある。いつだって気づいたら進んだ分戻っている気になっている。でも一年経ったらちゃんと進んでいる。すこし。私のリミットは私が決める。


今の私にできることを。


約一年前の写真です。

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カメラと自分の目と自然そのもの

冬、自分の部屋の窓から見える夜明け前の写真をよく撮っていました。この瞬間の美しさが冬ならではというのがあって。今は目が覚める頃にはもう完全に周囲が明るくなっていて、夜明け前の静寂みたいな感じにはかなり早起きしないと出会えないので、まあしばらく撮ることは無いでしょう。

気づいたのが、(まあ、当たり前なんですが)スマホとコンデジの色合いが全然違って。コンデジの方がもちろん鮮明なんだけど、スマホの色合いの方が美しかったりする。でも、自分の目が見ているものはコンデジの方に近いわけで。スマホの方が嘘、というか、、、でも、ここで考えたんです。

本当の色って誰の目にも見えませんよね。

今私の目で見ているものが真実だと思うけれど、人間の目が映しているものだって、飽くまで私の目というカメラが映しているものなわけで。自分の認識の色と自分の知識の中の色を結びつけて、それが何色かを確定しているけれど、例えば、木そのものが何色であるかは木自体しか分からない、というか。私が認識している色は私がそうと脳内で決めた色であって、自然界が放っている「そのもの」は永久に見られない。

そう考えると、確証できるものは何も無い気がしてくる。気が遠くなるのです。だからあらゆる記号や名前や決まりごとをつくって「この認識は共通である」ということにしているけれど、そもそも、一人一人持っているものが全然違うのだもの、ぶつかるわけです。そこにある色すら、本当は何色かなんて、永久に言えないのだから。

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国吉亜耶子and西川真吾Duo

今私は、3/27は3か月くらい前のことのような気がしています。でもいつだってそう。昨日の出来事も、もう何日も前のことに感じられる。ということは、私が感じている何日も前とか3か月前とか、その感覚のほうがおかしいんじゃないか。自分の時間の感覚はあてにならないけれど、自分が感じる昨日が何日も前のようなことなら、それは正しい。今言っていることが自分で分からなくなって、今自分で哲学を感じている。絶対違う。

イベントの前にも書いたけれど、国吉亜耶子and西川真吾Duoを初めて観たのは八王子のライブハウスだった。当時私が大好きだったバンドの前だったかな。もう10年くらい前のことなので、詳しいことは忘れました。『こんなに大きくなりました』という曲を最初にやったと思う。まじでびっくりした。ぎょっとした。自分のお父さんのことを歌う人をライブハウスで初めて見たし、お父さんのことを歌ったこんなに美しい歌も初めて聴いた。そしてドラムの人の動きがしなやかでのびやかで美しくて、この、ピアノボーカルとドラムという組み合わせが、足りない物なんて何ひとつないどころか、聞いたことも見たこともない世界を造り出していて、満員の、この日のイベントの重いギターロックを聴きに来た人たち全員が「こんなの観たことねー」と思いながら呆然と立ち尽くしている光景もまたすごかった。

私はたしか4回目のイベントの出演者を考えていたところだった。だからこの瞬間に、このお二人に出てもらえないかなあ・・・・と思ったけど、いや、絶対無理だとも思った。面識もないし。だけど、やっぱりどうしても出てもらいたくて、メールをしたんだと思う。そうして返事をもらったんだと思う。そして次に行ったライブ、代々木ラボ?かな。で初めて西川さんと話をした。優しかったけれどとても緊張した。前向きに検討しますという返事だったと思う。とても優しかった。そして出てもらえることになったのです。こんなイベントでした。2007年。

★2月11日(日・祝)「ヒカリノニワ#04」@四谷OUTBREAK!【4】
ストロボネコ / 国吉亜耶子and西川真吾Duo
OOMA / JUNIPERBERRIES. / FOOL&SCISSORS / 月ノ魚

ああ、ほんとうに良い時間だったのだけれど、今この中で同じ形態で活動しているのが国吉亜耶子and西川真吾Duoだけです。全てが懐かしい。なんでか、国吉さんの衣装が黒いワンピースだったのを覚えている。それが楽屋にかかっていたのを覚えている。

それからはほんとうにいろいろな思い出がある。このお二人はものすごく優しい方である。優しいというのは、たとえば、言葉や態度が柔らかいとか丁寧とかそんな表面的なことだけじゃなくて(そういう部分も素晴らしいのだけれど)、いつでも真っ直ぐに真実を見ていて、真っ直ぐに私にもアドバイスをくださる。こんな私に。表面的なことだけを言っていたっていいのに、自分たちがこうしたいとかそういうことじゃなく、私がどうあったらいいかということについて、ここまで教えてくれる人はいなかった。朝までお酒なんか一滴も飲まず、気づいたら夜明けどころかとっくに明るくなっていたりしたこともあった。

私は最近になって、ようやく自分の成長を感じられるようになってきた。ここ数年の話だけれど。ああ、去年よりは成長しているぞって思う。思っていたけれど、いざ久々にイベントをやってみると、びっくりするぐらい何もできない。ぬかりすぎ。知らなすぎ。分からなすぎ。自分が感じている感覚はほんとうにあてにならない。自分のイメージを形にするぞと思ってやり始めてやっと、自分の足りないものを知る。今でさえこんな私が10年とか前にどんだけひどかったかと思う。けれど、それでも、今でもこうやってイベントに出て下さって、今でも同じようにフィードバックを下さるお二人。本当に優しい。もちろんそんな恩恵を受けているのは私だけじゃないはずで、もちろん。たくさんの人に対してそう接しているんだろうなと思って。いつも真っ直ぐに。

どんな体調の悪い日も絶対外に見せない二人。当たり前かもしれないけれど、その時は本当にまったくわからないので、後でびっくりする。ものすごい体育会系の二人。いろんなところにあらわれているその精神。でも、いつしか、国吉さん、大丈夫かなって思うことがあって。私はもうその時はたまにしかライブに行かれなかったけれど。活動休止前に新宿で会った。その時はなんだ体調がよくないという話だった。いちど別れて私は西口のバス停に向かった。そこで、西川さんと合流した国吉さんと再び会った。私が西口に向かったので、歩いていればいるんじゃないかと思って、と言っていた。バスに乗ったら、手を振るから、というメールがきた。でも私のバスは、新宿駅方面を回らずに甲州街道に出た。

その後しばらくして、活動を休止することを知った。国吉さんは手術をすることになって、私はただただ祈っていた。何もできないので。国吉さんが、おばあちゃんに充てて千羽鶴を折っていたという話を思い出して、鶴じゃないけど病院で使えるかなと思うポーチみたいなものを作ることにした。作り始めてみたら物凄い複雑で布を継ぎ足したりしてガタガタの出来上がりだった。でもどうしてもその瞬間の気持ちを込めたものを贈りたかったので、送りました。たぶん使い道がなかったと思う。

無事手術が終わったという知らせを聞いて、しばらく経ってから国吉さんに会った。思ったより元気そうで、でも体調が悪くても元気にしか見せない人だから心配だった。でもここにこうして会えてよかった。ほんとうによかった。復活して最初のライブには行かれなかったけれど、その後、また更に生まれ変わったかのような二人を観ることができた。音楽性は変わっていないけれど、幕を一枚取り払ったような二人これからもどんどん新しいことをやっていくぞという空気しか感じられない、いつだって最高を更新していく二人。その生命や魂を、見なくて何を見るのか、と思うのだ。

もう、そんな、休んでいた時期があるなんて全く思えないようなステージを見ていて、10年前だって今だって圧倒されるのだ。

桜座、あの日、本当に最高の音だった。音のミストが降り注いであの空間を包み込む不思議な体験をした。全てが終わって、やっと、やっと、あの日あの場所であの空間にいた人たちが揃ったことを、本当によかったなあと思った。

ずっと昔の出来事も、ふとした出会いも偶然も、今日今この瞬間も全てが繋がっている。私は今したいことがあって、いつか、私に会いたいと思ってもらえるような人間になりたいと思っている。永久にそんな日はやってこないような気もするけれど、それを目指して生きていられる日々が幸せだと思うから、できた日のことは実際どうでもいいのだ。でも目標はどうでもよくないのだ。

私は私が伝えたいことを伝えていくのだ。