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『嫌われる勇気』に出てくる「怒りとは出し入れ可能な道具」という言葉の重要さ

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新しい仕事を始めて慣れない中、怒鳴り散らされるっていうシーンは軽くトラウマを呼び起こしますね。見ているだけでお腹痛くなれます。

誰かに何かを習得させるにあたり、(それだけじゃなく、生きていく上で)いかりって本当に無駄な感情だなあって思います。(よく言いますが。)

大ベストセラーの『嫌われる勇気』の中に「怒りとは出し入れ可能な道具」(・・・だったと思うたしか。)という一節があり、これを読んだときには本当にはっとしました。

なぜ怒鳴ってしまうのかという問に対し、「気持ちが抑えられない」ということは実は理由にならないのです。なぜなら、同じ怒りを感じたとして、それが目上の人とか自分より明らかに強い人とかだったら、同じように発散しないはずだからです。うん、物凄いムカついたとしても、めちゃくちゃ怖そうな人には怒鳴れないですよね。ということは「抑えられない」と言いながら、「怒鳴っても大丈夫な人」を選んで言っているわけです。抑えられないんじゃなくて、意図的に自分の気持ちをぶつけて不快にさせてやろう(もしくは、不快な思いをしても構わない)と思っているわけです。

相手を不快にさせず、でも自分が伝えたいことや伝えるべきことを理解してもらえるよう説明する、という手順を大事にしたいと思いました。自分もムっとするときはたくさんありますからね。

でもやっぱり、いつでも怒鳴っている人とか言葉がきつい人は好きになれないなあ。厳しいときついは違うなあって思う。よく一緒になってるなって思うことあるけれど。

まず、辛辣な言葉というものが、内容の前に人に与えるダメージって絶対加味しなくちゃいけないよなあと思う。内容以前にダメージを与える必要があるのか?あると思っていたらもう、その人と分かり合いたいとはたぶん心からは思っていないんだよね。そこにあるのは従わせたいという気持ちだと思うんです。

分かり合うために必要なのは、対峙していたらやっぱり「説明」だと思うわけで、それをすっ飛ばして怒りたくなったら気を付けよう。怒るっていうのは簡単なことで、それを抑えて説明をするということが、人としてできることだし、自分の成長にもなるなあと思う。他人を見て物凄く不快になるけれど、自分のこともよくよく振り返ろう。自分も十分に不快な人間かも知れないので。