ココロサードプレイス

日常で考えていることを書いています。

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全ての生き方に存在する理由

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・人を羨む
・人の話を聞かない
・人の時間を気にしない
・人の気持ちを考えない
・自分のことばかり喋る
・プライベートに踏み込む
・暗い発言ばかりする
・自分を良く見せようとする
・ネットで上から目線な発言をする
・求められていないアドバイスをする


これが全部揃っていたら本当に嫌なやつだなあと今見ても思うが、だから私は本当に嫌なやつだったのだと思う。これは過去の私であり、過去の自分の、人としての生きにくさの所以だ。(もっともっとあったと思うが、とりあえず今一瞬思いついただけでも。)

今でも私に上記の要素は多々あると思うが、少なくとも今こうやって客観的に振り返ることができるようになったのは、考えられない進歩だ。そのくらい酷いレベルで多くの人を不愉快にさせて生きてきた。できることなら被害を被った全員に直接お詫び申し上げたい。それでも今友だちでいてくれる人たちには心から感謝申し上げたい。


他人から理解されないことを大事にしたいと言っている人がいる。「僕らは少数派だけれど、真実を知っている」と言う。私もそれが真実だと思う。そう主張するその人たちが好きだ。

そのたち人は、私が最初に挙げたような人間を、忌み嫌いシャットアウトする。全く想像に難くない行為である。当然だ。そりゃあ不愉快である、私だって。

だけどずっと腑に落ちなかったことがあって、今日ふと思ったのだ。


私は過去の自分の生きにくさの要素を「病」と思うことにしている。一般的にそう言っていいのかは分からないが、私にとってはやまいであったのだ。

そしてそれはどんなに人を不愉快にさせていようとも、いや、させているからこそ「そこから救われるべき病」なんじゃないかと思った。私の好きな人たちが忌み嫌うこの人たちも(過去の私も)、同様に救われるべき人なんじゃないか。

というのは、最初に列挙した多くの人を不愉快にさせるような行動にも、全部原因があるし、治すことは十分に可能だと思うからだ。

ものすごく簡単に言うと、私はプライドを捨てたら大変に生きやすくなった。自分を実力以上に見せようとする必要はなくなり、他人の素晴らしさを素直にただフラットに受け止められるようになった。

そうなるまでにはとても時間がかかったし、何かを学んだその日から180度考え方が切り替わるとかそういうものではない。徐々に進み、また後退し、いつしか昔よりは楽に生きられているなあとぼんやり思う日が続き、そんなことも意識しなくなり年月が過ぎて、気づいたら10年前の5年前の自分とも全くマインドの違う自分になれているなあとやっと気づくような、そんなものだ。だけど私は、確実に病から救われたと思っている。


今この瞬間にも、残念だなあと思う発言を多々目にするし(これは時代だから余計にそう思う機会が多すぎるのだけれど)、でもネット以外の実生活でも不愉快な人にはそれなりに会う。というかしょっちゅう会う。

私は不愉快だと思いながら、でも、「すごくわかるなあ」とも同時に思っている。

なんで人を無駄に傷つけるのか、なんで人の話を聞けないのか、なんで後ろ向きな発言ばかりするのか、という言葉のあとに「理解できない」と言えることは凄く幸せなことだなと思うのだけれど、「理解できる」と思う自分がいてよかったなあと思う。物凄く消したい自分があるけれど、なかったことにしたい時代と人の記憶がどうにもならないことを思い返してたまに一瞬死にたくなるけど(すぐ復活するけど)、それが無い自分は考えられないなあと思う。

私はこれからの生活の中で、最初に列挙したような人に直接関わることがあったときは、できることなら一度、話を聞いてみたいなあと思う。もし、1ミリでも自分が話せそうな要素があったら、自分がこうやって今生きていることを、1ミリだけ伝えてみたいなあと思う。