ココロサードプレイス

日常で考えていることを書いています。

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つきつめると誰も憎めない

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今日友達との会話の中で出てきた言葉。

そう、ずっと思っていたこと。
「つきつめると誰も憎めない」

私が嫌いな人?いるいる!ムカつく人?いるいる!

でも、なんでこの人はこうなんだろうって考えて考えて考えていくと、最終的に「理解できない」には到達しないのだ。

「理解できない」は「考えることを放棄する」と同義の場合もある。

もしくは、「理解できるだけの経験や知識が無い」とも言える。

「理解できない」は決して美しくも・スマートでも・潔くもない言葉だと思う。

「それについて私は手間をかけたくない」と言い換えられると思う。

だから私はなるべくなら使いたくない言葉なのである。これからしていくべきことは、その言葉を使わない努力であると思っている。


自分がほんとうに悩んでいたたくさんのこと。

どうしてこんなに人とうまくいかないのか、どうして自分の気持ちを抑えられないのか、どうして何も続けれられないのか、どうして心とは裏腹のことを言ってしまうのか、

今全部説明できるし、ああ、以前の自分と似ているなあっていう人にもたくさん会うし、実際会わなくてもたくさん見かけるわけです、今の時代になって、よりたくさん。

あ、意外に同じことで悩んでいる人、悩んでいると認めたくない人、ものすごいたくさんいるんだなあと思って。

誰かと接してムカついた時に、「なんでこの人はこうなんだろう?」って突き詰めて考えたら、たぶん「分からない」は出ない気がしている。今の自分であれば。

それが正解なのかは分からないけれど、自分なりの答えは絶対に出ると思っていて、だから「理解できない」は使っちゃいけないなと思っている。そして、自分なりの答えが出せるわけだから、つきつめたら「〇〇だから仕方ないな」にたどり着くわけで、そうすると身近な他人から社会問題まで、すくなくとも「自分の答え」はいつだって出せるわけで、その答えって、出た瞬間にもう憎むべきものではない気がするんです。その人も物事も。解決すべきものであることは多いと思うんだけれど。

だから私が何かにムカついた瞬間すべきことは、なぜムカつくのか、それはどうやって解決できるのか、できなければ自分の中でどんな処理をするのかを考えることであって、やっぱり「こいつを嫌おう」とか「こいつを憎もう」とかいう想いは既に無駄なエネルギーだから、生じさせないに越したことはない。

何にもムカつかない、は難しいけれど、ムカついた瞬間に私は何かを放棄しているとは思うことにしよう。マイルール。