ココロサードプレイス

日常で考えていることを書いています。

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孔子先生の論語

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家族と話していて、分かり合えないなあという気持ちになって、ふと、こういう気持ちになったのはとても久々だなあと思ったのです。日常でもっと頭にくることとか理不尽なこととか本当にたくさんあるんだけれど、ここまで嫌な気持ちにはならないんです。なんででしょう。たぶん、分かり合いたい人と分かり合えないことが辛いんですね。日常の理不尽な出来事に、別に声を荒らげないでも飲み込めるのは、分かり合えないのが別に辛くないからなんだと思います。これは自分で習得した楽に生きるすべだとも思っています。

そして更に、こんな嫌な気持ちは久々だったから、そうかあ、最近はとても幸せに生きていたんだなあということに気づきました。こんなに腹立たしい気持ちが懐かしくすらある。以前はしょっちゅうこんな気持ちでいたんだな。辛かっただろうなあと思いました。

いつも心にある言葉があって。孔子の論語に出てくる「朝に道を聞きては夕べに死すとも可也」はいつも私のベースにある。

やってみたいなと思うことはたくさんあるし、毎日わりと楽しく生きているけど、だからこそ、「毎日楽しい」という日が来るなんて昔はとても考えられなくて、尊い日々を生きているなあと、たまに思い出す。楽しくてよく忘れる。尊いことを。そしてたまに凄く嫌なことがあって、思い出す。こんなふうに生きているってすごいなってことを。思い出すと今死んでもいいかなと思う。・・・というと強すぎるけれど、言い換えると、もし実は今死期が近いと知ったら、最後は前向きに受け入れられそうだと思う。「楽しい生き方を知れてよかった」と言って死にたいと思う。

いらないものを全部捨てたい。本当に必要なものだけを残したい。そうしたら、そこからまた必要なものだけを少しずつ集めたい。手に入れることも捨てることも同じくらいの労力が要る、というかむしろ捨てる方が難しい。ひと一人に対して過剰すぎる物。簡単に手に入る娯楽も過剰すぎる。簡単に時間が過ぎていく。でも本当は、揺るぎない取られない亡くせない褪せないものを身につけていきたい。それだけあれば生きていける形の無いものが一番重要で、自分の中にしかなくて、持っているという分かり易い印は何も無い、外から見たら何も無いけど自信を持って楽しく生きていられたら本当にすごい。けどそれを目指していたら、それだけで生きる希望である。外から見て何も無い自分を全く格好悪いと思わない、1ミリも思わない、誰に対しても思わない、そういう自分だけの「道」は更新されていく。今ぼんやり「道」は見えていて、それを幸せだと思っている。このまま生きていればたぶん、はっきりしてくるだろう。とても幸せである。

早く時が過ぎて来年の私になりたい。来年の私が何を思っているのかとても知りたい。1年後が知りたい。忘れず毎日何かを捨てたい。毎日見えないものを積み上げたい。私が好きなことをしたい。かっこ悪くても好きなことをして幸せだと思っていたい。いつも、本当に楽しいか、本当に好きかを考えて生きていきたい。道は深まるだろう。幸せは増えるだろう。