ココロサードプレイス

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自分はダメな人間だという思いを克服した話。

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いつでも、どこに行っても何をしていても、自分はダメな人間だ・どうしてあの人のようになれないんだろう、私もなりたい、なれない、つらい、というような想いを抱えていた時間は、大分長かったように思います。15年くらい?

そんな渦中の私が憧れていた人や職業や社会的地位やそういったものを、人の価値の基準としなくなったのは、(いや、ある意味価値だけれど、最重要とは全然考えなくなったのは)「楽しいが最強」だと思うようになったからです。

今は、自分が楽しいということ以上に重要なことは無いと思っている。どんな職業でも年収が幾らでも、家族がいてもいなくても、友達がいてもいなくても、「自分が楽しい」に勝る価値は無いと思っている。自分が幸せかどうか以外に、自分を測る物差しは何も必要ないと思っている。

大きな劣等感を抱えていた頃からは考えられない状態だけれど、どうしてこうなれたんだっけなあと考える。自分を肯定してくれる人に出会えたからっていうのもあるけれど、それはまたちょっと別の方向からのアプローチで、

全く一般的に認められないけど、世間で高評価される、学歴・職業・収入・社会的地位・容姿に並んだっていいんじゃないかって思うようになった価値を見つけたことで。それは「私は私なりに何かを考えている」っていうただそれだけのことなんだけど。それで十分じゃないか、と心から思っている。それ以外の自分に付随する何かしらは、すべてオプションだと思っている。

そして、別の方向からは、何を考えていても考えていなくても、「今この瞬間と、これからも継続的に楽しい」以上に必要なことは何もないと思っている。

今はまだ、自分の求める「楽しさ」にはぜんぜん到達していないんだけれど、それを目指すという目標があり、そこが到達すべきところだと思っていたら、意味の無い誰かや何かとの比較を全くする必要がなくなり非常に生きるのがラクである。

こういう話をすると、なんでそんなふうに思えるのかって言われるんだけれど、もうこの考え方に置き換わっている自分には、楽しい以上に必要なことが無いと思っているとしか説明の仕様がないし、実際にそれが本質だと思っている。・・・けど、そうじゃない時期もあったわけだから、変化があるはずなわけで、面倒なんだけれど考えてみると、徐々に考え方が変わったわけじゃなくて、ただフィルターを外しただけなんだと思う。

「楽しいことばかりして生きていられるわけない」を自分で何も考えられない頃から刷り込まれていくと、それは揺るぎない常識で社会通念で間違いない明白な事実となって存在しているんだけど、それを疑う気持ちをないがしろにしなかったことが、よかったなあと思っている。疑うことを教えてくれた人がいるんだけれど、ひとつ疑い始めたら、当たり前だと思っていたことは全部逆かもしれないってほんとうにびっくりするのだ。今でも毎日。

何者かになりたいとずっと思っていたけれど、何者でなくても、楽しい以上に必要なことなんてなにもない、ほんとうに、なんにもないと今強く思って生きている。